無能役を引き受けること。
こちらのエントリの
自分の評価ではなく、そこに生まれるものが、良いものであるようにとだけ切に願うとき、「無能を晒す」ということが有効に働く場面があることに気づいた。
という表現が気になりました。
結論から言うと、『無能な発言』がかえってよいシチュエーションはたくさんあると僕も思います。
さらに言うと、『無能な発言』がその人の評価を高めることも、しばしあるのかなぁと思いました。
とくに議論が停滞しているときには『無能な発言』の有用さを感じます。
1つには、『無能な発言』とはたいてい基礎的な発言であり、話の根本に立ち返らせる発言でもあるからです。
また1つには、議論の情報量を高めるからです。議論においてだれもしゃべらない時間=ムダな時間であり、その場の情報量を高める『無能な発言』がある方が良いことがあります。しゃべらないよりしゃべったほうがマシ、という話でもあるのですが、実際ミーティング中にだれもしゃべらなくなるタイミングは結構あるように思います。
みんなわかってるはずの、会議の目的をあえてもう一度聞くとか、今決まっていることを再確認するだとかは、傍から見ると無能そのものです。
しかしひとりが無能役を引き受けることで、全体が良い方向へ進むということはやはり頻繁に起きているような気がしています。
有能な無能でありたい。ということで一つ。